STORY2021-05-17

夫婦二人で丁寧にしっかりと、 服作りに向き合う毎日

FiTOの縫製を担当するほか、舞台衣装づくりなども手がける株式会社ソーイングオオウチ。代表の大内康孝さんに、工場を継いだ経緯やものづくりへの考え方、縫製業界に対する考えをお聞きしました。

大内 康孝

大内 康孝Ouchi Yasutaka

株式会社ソーイングオオウチ 代表取締役

群馬県高崎市のサンプル・衣装 縫製アトリエ工場

知識も経験もないまま、
両親がはじめた工場を継ぐことに

創業の経緯を教えてください。

大内(以下、敬称略):いまから50年前の昭和47年に両親が創業しました。私は2代目で、父から引き継いで25年目となります。区画整理のため創業時から少し場所が移りましたが、ずっとこの地で続けています。当時私は5歳だったので、小さい頃から工場で遊んでいたんですよ。

工場で遊んでいた頃、どんな服を作っていたか覚えていますか。

大内:生地がたくさんあったことはなんとなく覚えていますが、どんな服を作っていたかは覚えていないんです。機械が動いていて、女性の従業員さんたちが作業している風景や、父がいる風景を記憶しています。
あとから知ったのですが、当時はデパートの特撰品売り場に並ぶようなミセス向けの洋服を作っていたそうです。だからあまり自分には身近ではなく、関心がなかったんでしょうね。

2台のテーブルの上に、ミシンや縫製機械が並べられている

小さいときから「工場を継ぐ」という気持ちはありましたか。

大内:いえ、ありませんでした。もともと洋服は、着たり買ったりする方が好きだったんです。作る側に立つことは考えておらず、社会人になり総合商社に就職して営業の仕事をしていました。父にも「こちら側にくるな」と言われていました。「『いとへん(繊維業界)』にくるとしても、作る側ではなく売る側にまわれ」と。きっと、自分と同じ苦労をさせたくなかったんだと思います。
都会で営業を経験し、「自分でものを作り、売り歩くような仕事がしたい」と地元に戻ってきました。すると父が安心したのか脳梗塞で倒れ、突然工場を継ぐことになってしまいました。

縫製について何も分からない状態でこの業界に入ったということですね。

大内:はい。学生の頃にアルバイトとして手伝ったくらいで、縫製の勉強はまったくしてきませんでした。
工場を継いだとき、私は20代後半。突然従業員さんを抱えて会社を経営しなくてはいけなくなり、戸惑いました。ただ、姉が父と一緒に仕事をしていたため、自分一人きりではなかったのが救いでした。
その頃、会社には社員さん・パートさんが10名くらいと、そのほかに外注さん30名ほどが働いていました。一緒に仕事する人たちもかなり不安だったと思いますよ。まさか私が継ぐとは思っていなかったでしょうから。

向かって右側を向いて話をする大内さん

当時、何がいちばんつらかったですか。

大内:やはり経営、金融関係です。数字のことがわかっていても、それを具現化していくことは元サラリーマンには難しいですね。
恥ずかしい話ですが、それなりに商売をやっていればやはり借入などもあります。そんなときに代表が倒れて、急きょ後を継いだ息子が金融や経営の知識がなかったら、銀行さんは心配しますよね。
担保していたものを引き上げる話にまでなったのですが、当時の銀行の担当者さんが親切な人だったので助かりました。担当者が僕のことを見て「この息子じゃ無理だ」と思われていたら、生き残れませんでしたね。
フクル木島:縫製業界でいま残っている会社や工場は、きっとみなさん同じようなことを乗り越えているのではないでしょうか。

外国人実習生を雇い入れてから状況が好転。
衣装作りにも携わるようになった

いまは衣装も作っていらっしゃいますが、どんな経緯だったのですか。

大内:代替わりした頃からミセスメーカーにかげりが出はじめ、僕がだんだん若者向けの服作りにシフトしていったんです。それで職人さんから不満が出て、みなさん離れていってしまいました。
そのため工場の生産率が下がり、どうしようもない状態になったとき、知り合いの工場さんから「技能実習生制度」というのがあると教えてもらいまいした。「日本人の若い子がなかなか作る側にまわらないから、外国人の実習生を入れて対応している工場が多いんだよ」と。
それが今から20年ほど前の話です。早速私も制度を活用し、2名の実習生を受け入れました。すると、生産性・品質が格段に上がって仕事の範囲が広くなり、どんどんブランドを開拓していきました。

そのなかで「衣装を作る仕事があるんだけどやってみない?」と声をかけてもらい、お手伝い程度ではじめてみたのがきっかけです。「衣装作りもそれなりの技術として残っていくし、ネームバリューにもなるだろう」と思ってスタートし、もう15年ほど経ちます。
衣装のほかには、いまはフクルさんからの仕事が大きいですね。さまざまなブランドの洋服を作っています。

トルソーの前に大内さんが立ち、説明している

ものづくりにポリシーを持ち、
クオリティの高さを追求

フクル木島さんとの出会いを教えてください。

大内:3年くらい前に知り合いの工場さんの紹介で、木島さんからお電話いただいたのが最初の出会いです。他の工場に断られたものを、うちに持ってきてくれました。

木島:ある工場に「これ縫いたいんだけど」とお願いしたところ、「うちでは作れないよ」と断られてしまって。オオウチさんならできると言われたんですよ。

工場の入り口にて、大内さんと木島さんが並んで立っている

工場さんによって、技術的にできる・できないの差はあるのですか?

木島:やはりありますね。オオウチさんは難しいものでも幅広くご対応いただける稀な工場さんです。

木島:ある工場に「これ縫いたいんだけど」とお願いしたところ、「うちでは作れないよ」と断られてしまって。オオウチさんならできると言われたんですよ。

25年前、工場を継いだ当初は作る技術はなかったと思います。いまは洋服を自分で作ったりもしますか。

大内:はい。服を作る一連の流れは「裁断→加工→ミシン作業→他加工」となりますが、私が担当しているのは「裁断」。裁断した生地をミシン担当に渡します。また、ミシンからあがったものにさらに加工を施す作業も私の担当です。
いまは夫婦ふたりで全てをこなしているので、お互い両方できるといえばできるのですが、役割を分担して得意な作業を担当しています。ちなみに私はミシンはあまり得意ではなく、雑巾くらいしか縫えません(笑)

いまは夫婦お二人で作られているとのことですが、何年前まで外国人実習生を雇用していたのですか。

大内:4年ほど前です。最後の実習生が帰国したのを機に雇用をいったんストップして、夫婦でアトリエという小さいサイズでやってみることにしました。

ミシンを使って縫製している女性

「二人でやるからにはクオリティを保たないと」という思いが出てきますよね。木島さんから見て、大内さん夫妻のものづくりはいかがですか。

木島:大内さんはまじめですし、作るものにポリシーを持っているので、ありがたいとしか言いようがないです。だからこそ、こうして今まで残ってこれたのだと思います。

大内さんから見て、木島さんってどんな人ですか。

大内:アパレルに長く携わってきた人のなかでは、アパレルに固執していない考えをお持ちだなと勉強になります。アパレルには業界業界していて周りを見ない人が多い印象ですが、木島さんは縫製業界全体のことや小さな工場のことまでしっかりと考えていると思います。

業界全体が厳しい状況のなかで、
小さなことでも役に立ちたい

今後取り組んでいきたいことや展望があれば教えてください。

大内:縫製・アパレル業界はコロナ禍でより経営が厳しくなり、今までと同じようにはいかなくなりました。みなさんさまざまな方法で方向性を探っています。そんな状況ですから、今の体制でできることなら、小さいことでもお手伝いしたいと思っています。
先日、個人で服を作って販売している高齢の方から「家にボタンホールを開ける機械がないので、開けてもらえますか?」という問い合わせをいただきました。
服を量産していた頃だったらお断りしていたのですが、今の体制ならそれも可能です。ボタンホールを開けること自体は高度な技術は必要ありませんが、専用の機械が必要です。それがとても高額なんですよ。
小さなことかもしれませんが、できることがあれば可能な限りお手伝いしていきたい。それが私たちの役割だと考えています。

工場内にトルソーや縫製機器が配置されている。真向かいにホワイトボードや壁掛け時計が見える。
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取材・撮影株式会社necco

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